インド・ヨーガ留学の総括レポート(続)
カイヴァリヤダーマ研究所付属カレッジ・ディプロマ・コース(D.Y.Ed.)
期間:2009年7月-2010年4月(1学年)
このレポートはロナウラの『カイヴァリヤダーマ研究所2010』のシリーズです。
付属カレッジの2009-10年度のディプロマ・コース(D.Y.Ed.)にヨーガ留学されたS.T.さんの総括レポートです。
S.T.さんは、
2008年 1月インド研修ツアーでカイヴァリヤダーマ訪問
2008年 6月「穂高編2008」
2008年 8月「パナ・ソム2008」
2008年11月「ワンサニット2008」(2回)
2009年 1月「カイヴァリヤダーマ」の6週間コース(CCY)受講
2009年 6月「穂高編2009」
2009年 7月「カイヴァリヤダーマ」のディプロマ・コースに留学
2010年 4月同卒業
S.T.さんが「カイヴァリヤダーマ」に来られたのは2008年1月が初めてでした。日本のヨーガ団体のインド研修ツアーの一環でした(その前に、南インドで1ヶ月のヨーガ・インストラクター養成コースに参加された経験がおありです)。
その後、穂高で1回、タイで3回のHHの合宿セミナーに参加され、2009年1月から「カイヴァリヤダーマ」の6週間コース受講を中心に、
・ウルリカンチャンで自然療法研修
・イガットプリで「ヴィパッサナー(Vipassana)」研修
を組み合わせた約3ヶ月のインド短期留学、
そして2009年7月からは「カイヴァリヤダーマ」のディプロマ・コース(D.Y.Ed.)に長期留学をされました。
2010年4月末に修了試験を無事終了、ご無事に日本に帰国されました。
フィードバックの項目
今回のディプロマ・コースの総括は、次の項目でお願いしました。
1)プロフィール
①ヨーガ歴、ヨーガとの関わり、ヨーガへの興味
②留学前にされていたこと(仕事etc.)、今までにされて来たこと
③特に関心の深いこと、特技、趣味やライフワーク
2)カイヴァリヤダーマ研究所について
①『カイヴァリヤダーマ』の環境と施設
②学生寮/ダイニング・ホール
③付属カレッジの講師陣について
④他の学生について(インド人・外国人)
⑤キャンパス・ライフ全般
3)修了試験・理論編
①パータンジャラ・ヨーガ・スートラ(P.Y.S.)の基礎
②ハタ・ヨーガの基礎
③ヨーガと文化の統合・価値教育
④人体の構造・機能とヨーガの実習の効果
⑤ヨーガとメンタル・ヘルス
4)修了試験・実技編
・実技試験の内容と手順
5)教育実習(ティーチング・レッスン)
・教育実習の内容と手順
6)総括編
①『カイヴァリヤダーマ』のD.Y.Ed.コースに留学する価値はあったか
②ロナウラの総合的な学習環境はどうであったか
③どういう人がロナウラでの勉強に適しているか
④今後の進路・展望
カイヴァリヤダーマ研究所について
Kaivalyadhama Yoga Institute
→ http://www.kdham.com/
Lonavla-410403, Dist.Pune, Maharashtra, India
『カイヴァリヤダーマ研究所』は、ヨーガの近代的研究のパイオニアである「スワーミー・クヴァラヤーナンダ(1883-1966)によって、1924年にインド・マハーラーシュトラ州のロナウラに設立された、インドで(世界で)初めてのヨーガの学術的研究所です。
『カイヴァリヤダーマ』の研究室で、伝統的なハタ・ヨーガの技法の生理学的・心理学的な効果が科学的に研究されたことで、ヨーガが一般社会の教育・医療の分野で応用される方向性が確立されました。
現在、キャンパス内では、科学的研究ラボ、哲学・文献学研究室、付属カレッジ、ヘルス・ケア・センター(ヨーガと自然療法)、アーユルヴェーダ・センターなどが運営されています。
●付属カレッジ
(Gordhandas Seksaria Colledge of Yoga & Cultural Synthesis)
付属カレッジは、インドで初めてのヨーガを大学教育の枠組みで扱う専門カレッジとして1950年に開校、すでに60年の歴史があります。
現在までにインドの教育分野に多くの有意な人材を輩出しています。
●ヨーガ教育・ディプロマ・コース(D.Y.Ed.)
修業期間:1学年(7月16日開講、翌年4月20日まで)
入学資格:大卒(理系・文系学部を問わず、卒業成績45%以上)
年齢制限:35歳まで
申込締切:5月末
授業料(宿泊・食事込):留学生4300ドル(2人部屋共有:個室も可)
(インド中央政府厚生省AYUSH局の奨学金給付対象)
1学年間の「ディプロマ・コース(Diploma of Yoga Education)は、付属カレッジの中心プログラムです。
インド中央政府の人的資源開発省(Ministray of Human Resourse Development)の「NCTE(教員教育全国審議会)」から認定を受けており、「ディプロマ(D.Y.Ed)」保持者は学校教育・大学レベルでの教職への就職が可能になります。
また、将来ヨーガの研究者・専門家への道に進む場合にも、確実な基礎作りになるコースで、1950年の開校以来、教育・研究分野に多くの有意な人材を送り出して来ました。
実質的に、インドの良心的・常識的なヨーガを支えて来たのは、『カイヴァリヤダーマ』のディプロマ卒業生です。
現在進行中の、インド中央政府厚生省AYUSH局によるヨーガのスタンダード化(標準化)でも、1年間の「ディプロマ」がヨーガ教師の基準資格とされています。
1950年の開校以来、現在までの日本人の卒業生は14名です。
『カイヴァリヤダーマ』の「ディプロマ(D.Y.Ed)・コース」のカリキュラムを理解しておきますと、ヨーガにどのようにアプローチし、どのような方向に知識を深めて行けば良いかの、明確なガイドラインが得られます。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『カイヴァリヤダーマ研究所・付属カレッジ』
ディプロマ・コース(D.Y.Ed.)の総括レポート:
S.T. さん(東京在住)
1)プロフィール
①ヨーガ歴、ヨーガとの関わり、ヨーガへの興味ヨーガ歴6~7年。
消化器系が弱いため、20歳からさまざまな呼吸法を自学自習で実践。
30代になり、汗を流すスポーツより、静止して呼吸するほうが気持ちいいと気づき、ヨーガをスタート。
「ヨーガの気持ちよさとは何なのか」その答えを知りたく、2008年の一年間、相方先生のセミナーに多数参加し、2009年の1月にカイバリヤダーマCCYコース、7月からディプロマ・コース留学
②留学前にされていたこと(仕事etc.)、今までにされて来たこと
東京在住。フリーランスの編集ライター(主に教育系)。
2006年よりスポーツジム、サークルなどでヨーガ指導。
学生時代から身体表現に興味があり、ダンス、アクションショーなど経験。
現在はヨーガを通じて、表現の前にある身体の「感覚」そのものの構造、原理を理解することに興味があります。
③特に関心の深いこと、特技、趣味やライフワーク
ディプロマ留学前から興味があったのは、相方先生の研究テーマでもある「アジアの精神性とヨーガ」。インド哲学に原点を持つアジアの精神性が、歴史の中でどう派生・発展し、各国の文化に根付いたか。
留学中はじょじょに日本の伝統的精神を考える機会が増えました。ヨーガのゴールでもある「調和」という概念は、インドと日本ではその言葉が持つ文脈・背景が違う。
日本人がヨーガで何を求め、何を得ていくのか、日本ならではのヨーガの体得に非常に興味があります。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2)カイヴァリヤダーマ研究所について
①『カイヴァリヤダーマ』の環境と施設
1924年から続く研究施設は、敷地は大変広いですが、建物は質素で、落ち着いた佇まいです。
もともとロナワラは王族も利用したと言われる有名な避暑地。以前はヨーガの修行の地にふさわしい静寂の地であったと思われますが、今は高速道路や、別荘が隣接され
少々残念なことも。
とはいえ、出先から帰ると、敷地に一歩入った途端喧騒が消え、どこか心が純化されるような感覚を覚えるのは、さすが「ヨーガの里」にふさわしい磁場があるようです。
<良い点>
・大都市プネーにも近く(電車で1時間半)、
地元ロナワラの商店街・駅にも歩いていける距離。・スワーミー(出家僧)のクティが隣接し、敷地内にはハヌマーン寺院もある。
アーサナ・ホールには祭壇があり、インド人の信仰の様子もよくわかる。・過去に行われた研究結果は、出版物バックナンバーで容易に検索可能。心身への効果を参照するのに大変便利(CDの購入も可能)。図書館司書は内容をほぼ暗記しており、頼りになります。
・週に一度、カルマ・ヨーガ(自主的な奉仕活動)の時間があり、草むしり、ホールの掃除など、クラスメイトと交流するいい機会でした。
<残念な点>
・自然科学の分野での研究施設としては、もはやあまり機能していない様子(研究チームはあるようですが、何をやっているのかよくわからないままでした)。
・5~6年ほど前に高速道路が建設。なんと敷地内を横断しており、多少騒音あり(とはいえ敷地が広いため、ほとんどの場所で気になりません)。
②学生寮/ダイニング・ホール
外国人留学生は、インド人留学生と生活施設が違います。ヘルスケア・センター管理のゲストルームで、ある程度快適に暮らせます(インド人学生寮は、暗い部屋が多く、網戸がなく、トイレの悪臭がひどく…)。
さらに食堂は、インド学生食堂ではなく、ヘルスケアーの食堂を利用(インド学生の食事より、おかずがちょっと多く、味がマイルド)。外国人留学生は、インド学生より約10倍近い料金を払うことになります。
<良い点>
・外国人留学生は、追加料金でシングル可能(私はシングルでした)。
・病院内の食堂は、味はともかく、外で食べるより衛生面でかなり安全。
・食事、睡眠などは規則正しい生活が守られている。
・敷地内はわりと安全。部屋のカギをかけ忘れても大丈夫なことも(しかし気を抜くと痛い目に。共同洗面所に置いた眼鏡が紛失…)。
<残念な点>
・雨季はインド料理人の味覚も狂うせいか、大変辛く胃腸に最悪。気候が落ち着くとマイルドに。9か月はさすがに飽きました。
・インド全体でよくあることですが…
「停電・断水はしょっちゅう(とくに雨季)」
「部屋の扉・窓が完全に閉まらない(隙間から虫)」
「壁・天井がくずれる(雨もりは当然)」
「水道水がいきなり茶色(慣れると予感できる)」
「トイレのドアが便器にあたって半分も開かない(信じられない)」
すべて、インドでは常識のようです。
・州政府が日替わりで「停電時間」を指定しており、
週3回は夜まで電気が使えず、試験期間に懐中電灯で勉強することも…。
③付属カレッジの講師陣について
6教科の授業をそれぞれの先生が受け持ちます。
かつてカイヴァリヤダーマの創始者クヴァラヤーナンダ氏は「ヨーガはカルトでも、特殊技法でもなく“科学的知識の体系”である」との名言を残していますが、この科学における3分野(人文科学・社会科学・自然科学)を網羅するカリキュラムになっていると考えられます。
1.ヨーガの原点となる経典を学ぶ「パタンジャリ・ヨーガ・スートラ」
2.ハタ・ヨーガの重要経典を学ぶ「ヨーガ文献」
3.心理学の視点からヨーガを考察する「メンタルヘルスとヨーガ」
4.ヨーガの文化的価値を考察する「ヨーガと文化的統合」
5.ヨーガの身体的効果を考察する「人体の構造・機能とヨーガ」
6.具体的な指導法を学ぶ「指導法(前期)」と「模擬授業(後期)」
さらに5の解剖学の補講的な扱いでしたが、試験でも問われるのが
7.インドの伝統医療の思想体系を学ぶ「ヴェーダ的生理学」
各科目週2回のペース。休講がないと、時間割的には少々ハードに感じます。授業の予復習はどんなに時間があっても足りません。
講師の先生は、いずれもヨーガをこよなく愛する方ばかり。自分の専門性に誇りを持っている様子は非常に頼もしかったです。
(上記の科目の番号順に講師を紹介します)
1.シャルマ先生・・・厳格でプライドが高く、古典の曲を自慢気に歌う。
印象的な一言「現象を見ている限り、人生のゴールは到達できない」
2.サハイ先生・・・理路整然として、広大な知識を整理するのが上手。
印象的な一言「わたしが言っているのではない。古典がそう語っている」
3.ボガール校長・・・その場を一瞬で静寂に変える妙な存在感。
印象的な一言「瞑想で感覚は鋭敏になる。困ったことは鋭敏になりすぎること」
4.ボーデ先生・・・講義というより演説。自分の言葉に自ら興奮する熱中派。
印象的な一言「人間が必要とする価値は、すべてヨーガが持っている!」
5.バーレカール先生(医者)・・・わかりやすい説明で生徒の信頼感はナンバー1。
印象的な一言「relax(リラックス)と rest(休む)は違う。ヨーガの要は前者」
6.ガングリー元校長・・・巧みなジェスチャーで、授業は彼のショータイム。
印象的な一言「キミは中国人か?(何度も聞いてきて大変)」
7. ヴァゼ先生(医者)・・・カイヴァリヤダーマ病院の長老。抜群の親しみやすさ。
印象的な一言「バレバレー!(気分はサイコー!)」(毎朝の挨拶でした)
授業で特に困ったことは…
基本的に先生は黒板を使いません。つまり「書いて説明」が無い。そういう習慣がないのでしょう。
日本のような「知識を丁寧に説明する」教育配慮は不在です。聞き取れない用語や、わけわからんサンスクリット語は数知れず。ですので、それが重要な用語だったと知られるまでに1~2週間かかることもありました。
また、自分の講義に自ら興奮していく先生たちが時折、黒板を使って説明し始めても、「書いて知識を整理する」ことに慣れていないせいか、余計わからない図形やら構図やら落書きやらが立ち現われることも…。つづりミスは並みの頻度じゃありません。
<良い点>
・どの先生もカイヴァリヤダーマで教鞭をとることに誇りを持っている。
(時折、授業中でも創始者クヴァラヤナーンダ氏の絵画に敬う仕草も。ヨーガ研究の偉大な歴史につながっていることが実感されます。)
<残念な点>
・前回の授業内容をきちんと覚えている先生が少なく、授業内容が抜け落ちる事態がかなりあった(しかし、インド人同様あまり気にならなくなってくるから不思議です)。
④他の学生について(インド人・外国人)
<インド人>
ほぼ20~35歳の年齢層、男子の多くは20代後半です。
ヨーガを学びにくるだけあって、それなりに真面目で体力に自信があり、インドの伝統的知性・精神性に興味がある学生です。
しかし、最近のヨーガ・ブームにのって、ビジネスとして成功するために資格をとりに来ている生徒もちらほら。
インド人のことは語るとキリがありません。ある意味、大変魅力的で興味深いですが、
実際に付き合うのは本当に大変。
当初、インド人生徒と話したくなくて引きこもった日もありました。わたしが体調不良で寝込みたいところ、
「毎朝走れば治る!」
「ギー(油)を食べろ!」
「日本のコイン(お金)くれ!」
と、ちっとも休ませてくれない。
彼らがくれる「体にいい食べ物」を食べて、何度も下痢になりました。
また、自身の精神性を高めることに専念している生徒は1週間の休みに水だけで生活している生徒がいたり、つねにほかの生徒と距離を置いて瞑想状態を保つ生徒がいたり、
毎日自室で1時間のプージャ(祈りの儀式)を行っている生徒がいたりと、異文化体験としてのおもしろどころも満載です。
不思議なことは多々起こります。
授業で必要なプリントを、受け取った代表者がみんなの分のコピーをせず、いつまでたってもプリントがないまま授業が進行することが何度もありました。
しかし誰も文句を言わない(!)
コピー代を払わない人、人によってはプリント自体いらないという人がいて「人それぞれだから仕方なし」というインド的暗黙の了解があり、責任の所在はいつもうやむや…。
結局、各自が自分と友人の分だけコピーして、他人のことは知らんぷり、という状況。
やっとのことでコピーを手に入れても、授業中、近くの席のインド人たちが「見せて」とばかり寄ってきて、まともに読み書きができないことも何度もありました。
また、最初、プラクティスでは精神性のかけらもなし。先生がくるまでプロレスごっこや腕相撲、おしゃべり大会。アーサナ、プラーナヤーマに集中したい生徒の邪魔をし放題です。
最後の2~3カ月はようやく落ち着きましたが、「人の邪魔をしないため」という理由が先にくるのではなく「自分が静かになりたい」と思えて初めて実践できる人たちです。ある意味、本当に「無邪気な子ども」なのです。
しかし、実際に一度専念すると集中力はすごく難しいクリヤも、涙を流しながらどんどんマスター、上級ポーズもいつの間にか完璧にこなすから驚きです。
わたしはひとつの結論に行きつきました。 彼らは本質的に「他者性が不在」です。カーストの影響もあるのか、人ひとり違うと、まるで考えていることが違います。
しかし、日本人が容易に想像し、行動に移せる「他者を理解する」という姿勢は、彼らには全くありません。
インド人クラス・メイトはよく自論を語ります。決まって最初に出る言葉は、「人はそれぞれ違う」。とはいえ、もっともらしく語るその行く末は、「みんな宇宙の法則にしたがって存在しているにすぎない」が、大方の結論です(途中で、論点がずれる人がほとんどですが)。
それは、「“自分以外”の存在も、結局自分と同質」を意味し、「存在するもの全部=自分」でしかないのです。
あの人間たちは、一体何なのだろう…?
半年かけて考えた結果、彼らを言い当てるピッタリの言葉は
「天上天下唯我独尊」(!)
…あの礼儀や作法を必要としない、つまり、他者性を尊重するということがまったくの不在で、かつ各々の自律性が極端に際立ったままバランスを保つ国はみんながみんな、「天上天下唯我独尊」に生きているからだ!
もちろん、本来の「天上天下唯我独尊」はもっと深い意味あってのことでしょうが、私はこれで随分納得がいきました。
「彼らにとりつくしまはナシ」
とはいえ、インド人を通して、自分の「日本的なる性質」を何度も考える機会をもらいました。
私自身、無意識でよく使う言葉。
「だって、ふつうそうでしょ」。
この言葉で、他者に求めるものが自分には多くある。いや、じつは、多くありすぎる。
日本ではこれを「常識」と呼びますが、インドにいると、これが妙に他とのバランスを乱すことになる。
「ふつう」が存在しないインドでは、それを求める自分はただのエゴ(執着)でしかない。
日本では見えなかった自分のエゴに、とことん向き合う日々でした。
彼らは感情的に怒る人を見ると決まって、ほくそ笑みます。私からすれば「バカにしてる!」と、もっと躍起になりがちですが、彼らは本質的に、「怒ったほうが負け」ということを知っているのです。
「カルマに生きる」とは、まさにすべて自分に起こることは、まわりまわって最終的に「自分が起こしている」だけのこと。
インドでは不満を言わない、悪口を言わない人ほど尊敬されます。 また、周囲に関係なく自分の生き方を貫いている人をすばやく見抜き、遠くから敬愛していることも多いようです
(私から見たら、マイペースすぎて周りに迷惑だよ…と思う人でも 笑) 。
インド人の友人たちは、
他者に期待するのではなく、
社会に成熟を求めるのではなく、
純粋に自己修練へと向けていく。
その姿は、強靭な生命力で溢れていました。 「草木も空も、全部自分と同じ“存在”。素晴らしい!」と語り、
「人生は謎だらけ。なぜ生きる?なぜこの自分?
わかったつもりにならないで疑問に思うそこに神はいる!」と興奮し、
「考えすぎちゃいけないよ、ぼくはすぐに忘れることができる。だから今この瞬間のすべてを楽しむことができる!」と悩むわたしを励ます。
私から見ると、彼らはあるレベルで本当に自由でした。決して「知性的」ではないけど、「精神性」は宇宙の中心とつながっている絶対の安定感がある。
尊敬に値する友人たちに恵まれました。
<外国人>
(女性)イタリア人、ポーランド人、ロシア人、日本人(明里さん)
(男性)日本人(私)、3カ月後に途中から参加のウズベキスタン人
みなインドに留学するだけはあってひとクセ、ふたクセは当たり前。
とはいえ、みんあ真面目で、思いやりがあって、大変フレンドリーに関係を築くことができました。
イタリア女性はヒンドゥー語も操るインド学の研究者。大学側の落ち度を逐一指摘する「クレーム番長」として、いつも台風の目でした。ストレスをためるたび、ピザの配達を注文するのが笑えます。
楽天的でわが道を行くロシアと、気配り上手のポーランドはルーム・メイト。
多少の衝突をしながらも、毎朝キッチンで給仕のカルマ・ヨーガを行い、海外留学を積極的に楽しむ様子はあっぱれでした。
ウズベキスタンの男性は、とあるインドの新宗教団体の一員。親しみやすい人柄でしたが、カイヴァリヤダーマの授業、運営状況に不満を持ちやすく、団体のリーダーの超能力を語るときは、まさにカルト的…。
瞑想中も勝手に一人気持ちよくなってしまい、ちょっと雰囲気が違う。インドでは、外国人留学生を通した異文化体験も味わい深いです。
⑤キャンパス・ライフ全般
インド全体にも言えることですが、カイヴァリヤダーマでとくに顕著と思われることは、すべてが「非機能的」に働く、ということです。
ここの不条理は並みではありません。必要な連絡事項は全く連絡されませんので、無駄な移動、十分な準備ができないことは数知れず。
年間プログラム、授業進行はいきあたりばったりで、誰が管理しているのか不明なことばかり。
提出した課題が返ってこない、変更された自分の課題発表日がいつかわからない…すべてが、ただなんとなく動いているといった感じです(それでも最後はなんとなくつじつまが合うのがインドです)。
留学と言っても、他の大学との留学と同じ感覚ではないのでしょう。ヨーガはインドでは、伝統的哲学の一派であり、れっきとした精神修養のためのもの。
大学設備、授業カリキュラムが自身を鍛えてくれるわけではなく、自身の「自律性」が自分を支えるすべてになります。
わたしたち日本人からして当然と思われる「整然、効率、規則」は、あえて無視しているのかと思うほど機能していません。 何かを得たい、自分のものにしたい、と思えば思うほどそのことがすごく困難に感じられます。
それ自体が「エゴ」の重みとなって自分に跳ね返り、自分の存在自体を問い直すきっかけにもなっていくようです。
これは外国人にとってだけでなく、インド人にも同様に作用します。各々、相当なストレスを抱えることが多々あります。 「ヨーガを学ぶ」ということはどういうことか?じつはこの地の磁場は、それに直結しているように思われます。
勉強面も、環境面も、人が人として生きる感覚が機能的に働かないようにさせている、そういう場所に感じられます。
「不条理なことばかり」留学中、何度も思いました。しかし、学ぶものがヨーガであればあるほど、この状況は深い意味を為してきます。
わたしたち自身、本来そんなに機能的な存在だったのか?
不条理の中にこそ、ありのままの自身を見つめられるのでは?
ヨーガは、自身を「不条理な存在=苦」と見るところから出発する。
この非機能さこそ、自身を見つめるためのヨーガ留学に適した環境なのかもしれません。
カイヴァリヤダーマは、ヨーガに立ち返る力を強く感じさせてくれる場所だと思います。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
3)修了試験・理論編
卒業試験は主に4~5問で構成されますが、まさに、それが一年間のカリキュラムの重要ポイントになります。
C.A.さんのレポートで設問の詳細は紹介されていますので、ここでは、出題のテーマ(主題)を大まかに紹介します。
試験はすべて論文形式。それぞれ大きなテーマですので、実際は、ここで紹介する以上の細かいポイント・キーワードを記述していきます。
①パタンジャリ・ヨーガ・スートラ(P.Y.S.)の基礎
(終了試験の設問別テーマ)
PYSの前提となる「サーンキャ哲学(プルシャ&プラクルティ)」 「チッタ(自意識)」「イーシュワラ(究極の実在モデル)」などの理解、
人間の心身上に現れる「構造疲労(病的症状)」と、その理由(背景)と解決法 、
人間が本来的に持っている「構造上の問題(煩悩)」と、その理由(背景)と解決法、
PYSの重要キーワードについて、
(サマーディへの瞑想プロセス、アシュターンガ・ヨーガなど)
こう書くと非常にシンプルに感じますが、実際その思想体系は学べば学ぶほど、いろいろ出てくる底なしの面があります。
日本でヨーガ書籍がもっともらしく語る「アシュターンガ・ヨーガ」は、ほんの一部。むしろ、
「人間の存在原理とその限定条件をどう解除するか」その理解に尽きます。
そもそも「存在原理」って何か?
これはもう、このレポートでは説明しきれません。
感覚器官は万物の構成要素とどう関係しているか、
自意識はどんな要素で構成されるか、
目指すべき究極の実在モデル(純粋精神)とは何か、
人生の「苦」の原因とその解決法は何か、
自身を規定する存在原理が、瞑想でどう段階的に解除されるか、
ほか、どんどん出てきます。
…なんか、頭が痛くなってきますね。
しかし、
この『ヨーガ・スートラ(PYS)』の学習は留学の醍醐味です。
ヨーガをするとはどういうことか、確信が強まります。
なぜ自分がヨーガをするのか、迷いがなくなります。
自分という存在が、古典が示す「存在原理の記号性」に
すうーっと重なっていく感じです。
ヨーガをやるということは
私でありながら、私である必然性がなくなること。
それはまさに自意識が解除されていくプロセスです。
また、
インド哲学の主流であるヴェーダーンタを直接学ぶわけではありませんが、先生の話からヴェーダーンタ的用語も多く語られるため、ヨーガ(もしくはサーンキャ)がインド哲学の中でどう位置づけられるかも、多少見えてきます。
『ヨーガ・スートラ』は根本原理を理解する重要な基礎であり、心理モデルとしては不朽の原点である。ヨーガの確かさが実感される授業でした。
②ハタ・ヨーガの基礎
(終了試験の設問別テーマ)
ヨーガの種別化とその特徴、
ハタ・ヨーガの位置づけなど、
ハタの二大文献「ハタ・プラディーピカー」「ゲーランダ・サンヒター」の概要について、
ヨーガに取り組む基本姿勢について(食事、住居、禁忌など)、
古典における各技法の特徴、種類、効果、意味など、
(アーサナ/プラーナーヤーマ/ムドラー/クリヤー/ディヤーナなど)
ハタ・ヨーガの重要な概念の理解、
(プラーナ、ナーディ、チャクラ、クンダリーニなど)
ハタ・ヨーガの経典を学ぶことは、もうそれだけで楽しいです。 技法そのものの暗記は大変ですが、技法全体を見渡した時、先人たちがいかように人間の存在の仕方(構造)をとらえたかが実感できて、大変興味深いものがあります。
驚くべき記述は山ほどあります。
個人的に興味深かったのは、 サマーディと同義である「クンダリーニ」の記述。留学前、なぜ心の静止の「サマーディ」がハタ・ヨーガの文脈において「クンダリーニの目覚め」と
同義になるのかずっと疑問でした。
しかし、古典に沿ってプラーナの意味、スシュムナーと他のナーディの違い、プラーナがスシュムナーに流れる仕組み・状態を理解したとき、初めて納得できました。
複雑な思想体系の網の目が、まさにつながる瞬間です。「心の静止」という目に見えないレベルの話が、人体の構造、生命活動の原理に結び付けて語られている。ハタ・ヨーガならではの面白さが実感できました。
③ヨーガと文化の統合・価値教育
(終了試験の設問別テーマ)1.「文化」とは何か
(文明、人道主義、インドの文化性、さらにヨーガと関係づけて)
2.「インドの伝統的価値観」について
(バガヴァッド・ギータ、サーンキヤ哲学など)
3.「他の宗教」とヨーガの比較
(仏教、ジャイナ教、イスラム教、キリスト教など)
4.「価値」と「価値教育」について
(価値観の理解と、ヨーガの価値教育における役割)
この科目は、カイヴァリヤダーマ創設者クヴァラヤーナンダ氏が、ヨーガが教育として一般に普及されるために特別な思いを込めて設計したと言われています(じつは大学名は、この科目と同じ名前です)。
たしかに、この授業はヨーガの「技法や効果」や「古典の知識体系」を目的に学ぶわけではありません。テーマはずばり「ヨーガが人類にとって、どんな役割を果たすのか」。
…かなり大きな主題です。
人類の営みに必然的に存在する「文化」「価値観」「宗教」。ヨーガとの関係性、位置づけなどを確認し、人類にとってヨーガがどれだけ重要かを学習します。
とはいえ、「文化」や「価値」を学問的に考察するなんて当然、未経験なことだらけ。西洋の研究家、インド人の学者の論文を参照するのは難解ながらも、新鮮で楽しいです。
講義の結論は、まさに…
「インドの文化は、まさにヨーガの精神性を象徴する!」
「価値教育をヨーガで行えば、理想的な人格育成ができる!」
「インドの伝統的価値は、まさに精神修養の完璧版!」
などなど。
こうして書くと、ありがちな結論にしか見えませんが、「古典」の概念に立ち戻って、細かく確認していくと、逆に、ヨーガが存在しない文化や社会がいかに貧しいかを実感してくるから興味深いですす。
が、「ヨーガ万歳」を無理矢理結び付けて、クラス全体に失笑が起こることもしばしば。
(「キリスト教の祈祷法の仕草は、ヨーガのバンダである!」はさすがにちょっと…)
講義は、インドの伝統的価値、文化の特徴にも踏み込みます。インド人が自ら自国の文化、価値体系を学習する様子は大変興味深いところでした。
が、インド人生徒にとっては、わりと賛否両論。
(もしくは、何を言いたいのかよくわからない、など)
受け止め方が様々なところが大変面白かったです。
ヨーガ指導者であるなら、社会科学的にヨーガの必然性を語れなくては!そう思わせる、非常に情熱的な授業でした。
④人体の構造・機能とヨーガの実習の効果
(終了試験の設問別テーマ)
1.各器官(とくに循環、消化、呼吸)の構造・機能と、ヨーガの技法との関係性
2.各アーサナの機能解剖学的・生理学的な特徴・効果・実践の注意点など
3.プラーナーヤーマ(カパーラバーティ)の生理学的な特徴・効果・実践の注意など(その他クリヤ・ムドラーも同様)
4.チャクラ、パンチャ・コーシャ、パンチャ・プラーナなど、伝統医療の概念の説明
この授業を通して、「ヨーガ的視点で身体の構造を見る」がどういうことか、じょじょに理解できました。
それは生存することの原理を、大変シンプルに記号的に見ていく特徴があります。私がとくに注目したのは、「脳―神経―体」この3つをつなぐ回路がスムーズに連携がとれているか否か。
それが「恒常性機能(ホメオスタシス:自己回復能力)」を促進するカギであり、ヨーガの目指すところなのだ、と。
アーサナもプラーナーヤーマも瞑想も体の部位はあれこれ使いますが、基本はこの回路における「連携の適切性」を調整していることが重要だと、わかってきます。
とはいえ、脳は、なんと感情(心理現象)に干渉されやすいことか。
神経経路は、いかにストレスや環境に影響されやすいことか。
感覚受容器の体は、どれほど必要な情報を脳に送ることができないか。
授業ではよく「○○の悪循環」といった、病気や障害の“連鎖”を確認しますが、
この3つの経路が、どう乱れていくかがよくわかります。
だからヨーガの技法が、その連携を生むためにあるのだ、と。
相方先生が語る
「『ヨーガ・スートラ』がアーサナの効果として挙げる「葛藤の解消」とは、まさに「脳と体のスムーズな関係性」だ」ということが、よくわかります。
また、「プラーナーヤーマ」が呼吸の運動ではなく、“呼吸筋”の運動であり、それは大脳や神経中枢を刺激する“信号”だ、ということも納得がいきます。
こういったことは、日本の医療系の解剖学の授業で学んだだけじゃ、わからないことかもしれません。
また、面白いことに、身体の構造や機能を、より記号的に客観的に見るので、自ずと、ヨーガの究極的な思考に行きつく感触があります。
メタボリズム(代謝)の学習をしていたころです。つまるところ、
「生きているということは、一体何なのか?」
肉体レベルを最小単位まで分解すると、それはもう
「代謝(同化と異化)の連続」でしかないのではないか、と。
エネルギーを貯めて、使って、貯めて、使って。
生命を継続させるためにプラス⇔マイナスのやりとりをし続ける。
「生きている」といっても、肉体レベルは何かに向かって発展しているわけではない。
「エネルギーの足し算引き算」を繰り返すだけ。
もっと言えば
「足し算引き算を継続させるために生存活動そのものを行っている」とも、言える。
末端における客観的な事実は、じつはこちらのほうが正しい。
ハタと気づく。
これはちょっと…不毛だな。
この「生存」を継続させる体の機能性は、そのまま心の機能性に通じる印象があります。
まるで、好きなこと(プラス)、嫌いなこと(マイナス)の間で、繰り返し揺れ動いているだけの人生みたい。
プラスとマイナスに揺れるそれを「執着=苦」と呼び、
ヨーガはこれを「ニローダ=止滅する」ことを目的にする。
そして解脱とは、まさに「人生の輪廻転生を終える」ということ。
プラス・マイナスのやりとりのためだけに存在するなら
「これはもう、止めていいのでは?」
「むしろ、止まっていないことのほうが、おかしいのでは?」
最後に来る言葉は
「もう、生まれなくてもいいよな~」。
…とまあ、こんなヨーギーな感想を、この現実的な科目から実感するに至るとは、ちょっと予想外。ヨーガの大学ならではの発見が豊富でした。
⑤ヨーガとメンタル・ヘルス
(終了試験の設問別テーマ)
1.「心理学」と「ヨーガ」の特徴、関連性を比較・考察する。
2.ヨーガの考える「健康」とは何か?
3.各キーワードをもとに、ヨーガと心理学のアプローチの違いを検証する。
(主なテーマは「正常性」「葛藤」「欲求不満」「態度」「人格」など)
4.「ストレス」の概念・対処法(心理学とヨーガの比較)
5.ヨーガにおける「祈り」の役割と、心理学的効果について
今までわたしは、勉強するなら、「心理学より哲学」という姿勢でした。
「心理学は、心を分析するものであって、本質的な人間の存在理解が目的ではない」
どこか冷めていました。
ところが、この授業で、すっかり心理学の面白さに目覚めました! 心理学は、心がどうの、だけじゃない。医学とは違ったレベルで人間の「健康を測る尺度」を持っているとわかったからです。
講義はどんなテーマであれ、つねに「人間が健康であるということをどう考えるか」に帰還します。ヨーガがもたらす「包括的な健康」が、心理学の学問的アプローチはどう対比できるのか。 一気に興味がわきました。
そもそも「異常な状態、正常な状態」って一体何なのか?あらためて考えると不思議です。 境界線はどこで引けるのでしょうか?
健全な態度、健全な人格、も同じくです。 残念ながら、心理学者の理論は、私の目には
いつも「部分的でしかない」という印象を与えました。もっとも、これこそがこの授業の狙いだったのです。
結論は決まって、「心理学じゃ本質的な解決は得られない。ヨーガこそ、人間の存在を丸ごと解決できる!」 と断言します。
(去年のディプロマ卒業生、前川夫婦はこれを水戸黄門の「ひかえおろ~」になぞらえていました(笑)。
まさに授業終了5分前がヨーガ万歳のクライマックス)何かマイナスととらえる状況があったとき、それをプラスへと改善するのが健康への一歩。心理学はつねにそれを追求する。
しかし、実際は、そのプラス・マイナスを生んでいる状況から解放されない限り、結局同じことの繰り返し。ヨーガは、そのプラス・マイナスを超えた次元に自身の存在があるという“気づき”をもたらす。これこそが求めるべきゴール。
授業の狙い通りに、心理学を踏み台にしてヨーガの超越性を実感する面白さを知りました。
にしても、心理学という比較対象があって、ヨーガの独自性が際立つ以上、やはり心理学の目の付けどころは学ぶところが大きいと思います。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
4)修了試験・実技編
・実技試験の内容と手順
C.A.さんのレポートに試験の詳細が報告されていますので、少々別の視点から報告します。
男子と女子は、実技指導の先生が違います。
(男性はバーラット・シン先生、女性はディクシット先生)
両方の先生方が、きちんと指導方針の目線をそろえているかと思いきや、さすがインド。
そんなことはありません。
たまにある模擬授業や合同プラクティスで男子と女子が一緒にやると、アーサナ、呼吸法の手順や姿勢が全く違い生徒の中でかなりの動揺が起きました。
(もっとも、男子の大多数はまったく動揺しない鈍感さ)
わたしが見たところ、男性の先生も女性の先生も自身の指導法の裏付けはきちんとあるようです。重視する参照文献が違う、もしくは、プラクティス上で重視する点が違う、と言えるのかもしれません。
ただし、女性の先生は指導説明がかなり細やかで、ためになる情報が満載。模擬授業をすると、女性徒の情報量の豊富さと秩序だった論理展開は、男子と雲泥の差です。
(男性の先生は「聞かないと教えない」くらいの指導です)
こうした差にようやく気付きだした男子生徒は女性の先生の指導を得られないかと画策しますが結局は断念。 基本的に、インド人は自分を指導してくれる先生を心から尊敬しますので、男子は男子なりの、というところで落ち着きました。
おもしろいのは、とくに男性の先生は、一人ひとり違う動きをしても、あまり細かく指導しないことです(極端に違うものは指導しますが)。
細かい部分での完成度より、アーサナの最中の“気づき”の感度のほうが重要ということです。その考え方は非常に共感するところです。
実際、男子生徒の多くは、最初はびっくりするほど稚拙だったのが、それぞれのレベルに合わせて微細な体の変化を自然に味わうように成熟していきました。
ですが、困ったことも多くあります。試験前になると指導法が変わるのです。試験官は外部から来るため、先生はふだんとは違う「試験用のアーサナ手順」を細かく教え始めます。
みんなビックリです。昨日まで「これが正しい」と(勝手に)思っていたことが、イチから訂正させられるのですから。試験用のやり方がいいのなら、ふだんからそれで指導してくれ!
…と、まともなことを叫ぶのは私くらいなものでしたが。
また、試験本番もそれなりにおかしなことが起こります。
前期の中間試験で、試験終了後に審査官が不満足な点として、真っ先に次のことを言ったのです。「みんなのアーサナからヨギック・ジョイ(ヨーガ的歓喜)が感じられない」。
つまり、アーサナ中に真剣な顔ばかりで満ち足りていない、ということなのです。これにはちょっと腰を抜かしました。
言いたいことはわかります。が、実際の練習として今まで「ヨギック・ジョイを感じる」プラクティスを促されたことがありません。
むしろ全身の感覚をさらに高めるため「もっと引き揚げろ」「最大限伸ばせ」と、わりと軍隊っぽい指導ばかり。その中で、生徒は生徒なりにアーサナと調和する自分を真面目に追求してきたわけです。
…これがインドの試験です。
試験用にあえて準備をすることも滑稽なら、実際の試験の評価が見当違いなところにあるのもへんな話。こういうことが多々あるのがインドの特徴です。
とはいえ、ちゃんとした面ももちろんあります。
カイヴァリヤダーマでよくあることですが、今年も、アーサナの国際大会のチャンピオンの経歴を持つ生徒がいました。が、試験での点数は決して高くありません。
柔軟性やポーズの難易度は、ヨーガの本質と関係がない。 あくまで、身体とそれを感受する意識の調和状態が重要なのです。こうした点で、カイヴァリヤダーマの試験は非常に適正に評価します。
また、これは実技とは関係のない話ですが、最終的にコース全体を通して、その年の最優秀生徒が4人選ばれます。試験の点数とはほぼ関係なく、日ごろの学習態度で選ばれます。こうした点数一辺倒でないところは、とてもいいことです。
(最優秀生徒は学費が高額援助されます。当然インド人が対象です)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
5)教育実習(ティーチング・レッスン)
・教育実習の内容と手順
模擬授業は5回行います。(実技指導3回。理論指導2回)
① アーサナ
② プラーナーヤーマ
③ ムドラー(バンダ)・クリヤー
④ ヨーガの概要(スポーツとの違い、8支則の概要、瞑想について、など)
⑤ ヨーガ・セラピー(病状の治療:ヘルニア、喘息、腰痛など)
それぞれ、各テーマを与えられ、20~25分間の指導を行います。
実技の流れは
導入(必要性、動機づけ)
→指導(デモンストレーション、実技)
→実践(個別、グループ)
必須条件として、生徒の配列の工夫や、
視聴覚ツール(黒板、画用紙、PCなど)を使うなど。
正直、日本の指導育成の現場から見たら少々稚拙な印象です。現場に応用できない、特殊な理想モデルを追うだけの側面もあります。
しかし、指導法研究が成熟していない(もとい必要性を求めない)インドにおいては、基本を忠実にやることが大事だと解釈しました。
注目すべきは⑤のヨーガ・セラピーです。すでに機能解剖学の授業で、ヨーガ・セラピーの限界は、しつこく語られます。
「ヨーガは治療の手段的側面はあるが、それを目的とした技法体系ではないため、危険な面も多くある」
「ヨーガ的視点から「病気=悪循環のサイクル」を見ると、原因は「ストレス+不規則な生活スタイル」に帰結することなのでヤマ&ニヤマで治療の9割が完結する」
「セラピーに使うアーサナはどれも初心者向けのもの。アドバンスのアーサナはもってのほか!」などなど。
…ですが、現代のインドの流れでもあるのでしょう。 「ヨーガは病気を改善する」なくしてヨーガ・ビジネスは成立しない。インド人生徒のセラピーの注目度は非常に高く、「生きる姿勢」より「技法」そのものの効果に走りがちな印象でした。
わたしは適当に勉強していたため…模擬授業で痛い目をみました。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
6)総括編
①『カイヴァリヤダーマ』のD.Y.Ed.コースに留学する価値はあったか
ありました。
ここまでやって、「ない」とは言えません(笑)。
おそらく多くの留学生が思うことだと思うのですが、期待したものと違うものを与えられるのがこの留学の特徴かもしれません。
コースの目的が「ヨーガのプロフェッショナルの育成」ですが、日本人が普通に想像し得る「学習方法」と「体系化された情報」がこのコースが提供されると思ったら、期待はずれもいいところです。
実際のところ、現段階で、ヨーガはそれほど教育科目として整然と原則・整備化されたものではありません。
ほかの「音楽留学」とか「スポーツ留学」といった世界的に一般化される技術や論理体系をまだ持ち合わせていない。入学してからよくわかりました。
インドで生まれ育たないとわからない、インド独自の文化・宗教は、ことのほか密接に絡み合っています。
とくにディプロマ・コースは最初から「インド人」のヨーガ教師を育成させることが目的です。外国人は外国人です。
例えて言うなら、「茶道留学」というものが実在するかはわかりませんが、日本に「茶道留学」する外国人がいたとして、私たちは、その外国人をどう見るか?
茶道が背景にもつ日本文化の特徴、わびさび、もののあはれ、和歌、禅の精神、独特の建築様式… 茶道をやっていない私でも「日本に生まれていなければ、わかるわけがない!」と容易に思ってしまいます。
これがこの留学の特徴です。そうした、知識として体得できるできない以前の、生活そのものを反映する「伝統文化」の只中に飛び込む体験が、このカイバリヤダーマの留学だと思われます。
ですので、コース全体をかけて学ぶのは、知識や技法だけでなく、別の次元にも意識が向いていきます。
わたしもまだ上手に表現はできませんが、もっと大きな枠組、ヨーガの存在そのものです。
「ヨーガという最高の精神修養の思想と技法が、なぜ、このインドの地でしか、生まれ得なかったのか?」
「生存することをこれほどまでに苦と思えるインドの思考は、逆に“生存しない”という次元を、どう考えるのか?」
…などなど。
これは理論で納得するものではなく、体験的に実感していくものでしょう。
私自身、明確に何かをつかんだ、というわけではありません。しかし、漠然と思うのは、表面的な条理ばかりを追求する社会ではヨーガの本質を体現できないということ。
人間存在の不条理に立って初めて、その精神性の何たるかが実現される、ということです。「ヨーガは、確かにインドでないと生まれない」と実感しました。
この意味で、この留学は非常に意義のあるものでした。
②ロナウラの総合的な学習環境はどうであったか
前述のとおり、カイヴァリヤダーマは教育現場として決して「ベスト」と思われる様相ではありませんが、学習するヨーガの内実を思うと、ある種の適切性をまとった「ふさわしい環境」とも考えられます。
とはいえ、悲しいかな、本当に“不条理的”なものが多いのは事実。中でも「生徒を一人前の人間として扱わない」雰囲気は一種、独特のものがありました。
・平日は完全に外出禁止。
インド人生徒は、夜9時以降は部屋からも外出禁止です。気分転換するようなものがないため、外出したくてたまりません。ちょっと門の外で夕日を眺めるのも、門番がうるさくてうんざり。体調管理に必要なフルーツとて、買い置きすると腐ってしまう。無断外出した生徒は、ペナルティ(罰)を受けることもありました。
・ふるい落とし的な出欠確認
90%の出席率がないと卒業試験を受ける資格がありません。これは最優秀生徒を決める大事な評価にもなります。しかし、1日の中でいつ出欠をとるかわからない。ちょっとトイレや図書館に行った隙にとられることもしばしば。外国人登録のため警察に行くといった不可避的なものまで欠席扱い。…ヤル気を損ねるため、最後はどうでもよくなってきます。
とはいえ、何度も言うようですが、こういうストレスフルな生活こそヨーガの学習にはそれなりの効果があるように見えます(!)
うるさい稚拙なインド人生徒も、やがて内省的な人格が形成されていきますし、わたし自身、「耐え忍ぶ」という人生の基本を学びました。
環境との摩擦で生まれるネガティブな心理状況をつぶさに見ていくことは、アーサナ、プラーナーヤーマ、やがて瞑想がどう自分に効果的に働くかを検証するのに役立ちます。
「苦しい環境」が私を支配するのではなく、それをそうとさせる「心理」が自分を苦しめる。それを解除するのに効果的な技法たち。おもしろいものです。
また、こうしたストレスがたまりやすい日々の中、私的な体験談を報告しますと…
実際に、私の留学生活は本当に過酷(!?)なものでした。体調不良(嘔吐と下痢)との戦いです。
これほどまでに体調を崩した日々はありませんでした。食べ物が合わなかった、のは確かです。辛い料理は大の苦手、留学して最初の3カ月は大変でした(途中から自炊も始めました)。
もっとも、体調不良の原因は食べ物だけではないのでしょう。精神面が関係しているのは十分に承知していました。あの手この手を尽くして、体調不良の原因を探ります。瞑想時間を増やす、食事の食べ方を変える、人との付き合い方を変える、などなど…
体調不良が自分の限界レベルを超えると、ある種、思考パターンが変わってきます。「なぜここにいる(なぜ生きている)?」 つねにその問いが浮かび、最終的に「自分のためにここにいる(自分のために生きている)」 という答えに行きつく。
この「自分のために生存している」ということが、どうしようもなく負担に思えてくる。「自分のために生きなかったら、この体調不良も苦しくないはず」…極端ですが、私にとって
インドはそう考えるのにふさわしい何かがあるのです。
自意識(エゴ)は重い。自分が自分であることをとことん取り払いたい…。精神はどこか研ぎ澄まされますが、その分、自意識(エゴ)にとらわれてある自分を自覚する、苦しい日々の連続でした。
5か月が過ぎて、相方先生が仕事先のタイからカイヴァリヤダーマに戻られた時、「インドはその人が欲しいものだけを与える」とおっしゃったときに、深く納得しました。
どこか自分でもわかっていましたが、自分は病気になりたくてなっている、それを通して、得たい何かに近づいているのだ、と。
たしかに、体調不良のときほど、自分はよく考える。考えることがよいか悪いかは別として、インドで学ぶ醍醐味を、その瞬間に一番味わっている。
実際に、体調不良は本当に苦しかったですが、それがなければ得られなかったであろう
自分の内実に気づくことができました。体調不良はその後も続きます。しかし、それを深刻に受け止めなくなり始めたとき、わたし自身の考える内容が変わりました。
自意識(エゴ)の何事かではなく、「自由であること、調和であることはどういうことか」、もっと広い概念にシフトしていきました。ようやく解放され始めたときです。
抽象的な表現で申し訳ないのですが、執着はいつも「あることをないことにする、ないことをあることにする」から始まるようです。
“主観的”な言動というのは、これに尽きるのでしょう。ありのままに見る冷静さ、「あるものはある、ないものはない」ということが、ヨーガの技法とともに見えてくると、そこは、絶対的な客観視の世界が開け、自由な境地のスタートです。
「あるとしたそれは、さらにどうあるか」、さらなる絶対的客観の行く末は、“ある・なし”に囚われる主観性(執着)がもはや持続できないところに移動せざるを得ないでしょう。
(このへんのことは、経典『ヨーガ・スートラ』が示す「煩悩」とともに、また別の機会に、みなさんにご報告、共有できるよう整理できればよいのですが…)。
まさに、自分では想像もしていませんでしたが、この留学で過ごした時間が、「ヨーガの技法は、自意識(エゴ)を解除するためにある」というプロセスと呼応したものになりました。
(もっとも、これはかっこよく書いていますので 実際はまだまだ…。解除しきれない自意識は、べた~っとはりついています) 。
今は、体調も無事回復し、一年が終わって、本当に、心から、清々しています。
生きのびてよかった~。
ちなみに…。
おもしろいもので、体調があれほど最悪でも何かとつじつまが合って行くのがインド。留学前からどうしても遂行したかった、5メートルの包帯を飲むクリヤは、もはや無理かと思われましたが、最終的にできるようになりました。
前日に嘔吐していたにも関わらず、です。 あの日の“体”は、私のものじゃなかった(!)インド人クラスメイトの拍手は忘れられません。
③どういう人がロナウラでの勉強に適しているか
ヨーガに興味があれば、どんな方でも体験されるとよいと思います。
しかし、
「インドで学んだという経歴」
「カイヴァリヤダーマの証明書」
といった、本来ヨーガの“外”にあるものを求めると痛い目を見るかもしれません。
日本で考えるヨーガの文脈とはあまりに違う現実があります。
④今後の進路・展望
ヨーガをライフ・ワークにしていきたいです。それと同時に、「日本の伝統的精神性」についても勉強したいと思います。
精神修養の技法としてヨーガの素晴らしさは数々体験することができました。それは巨大な思想体系を持つインド哲学・精神性に近づけば近づくほど深みが増します。
であれば、同時に日本に根付いた伝統的精神性が、インドの精神性とどう関係しあっているのか、その文脈を整理できると、さらに、精神修養の名のもとで求めていく人生のゴールが極端なものでなく、より充実した調和の広がりのもと理解されることができるのでは、と思っています。
面白いことに、留学の途中から日記を俳句の五七五調でつけ始めることになりました。それまで俳句や川柳など、たいした興味はありません。別に「和」を味わいたかったわけでもありません。 「インドのこの地で、自分の意識に浮かぶことを適切に表現したい」、そのとき、“自分の言葉”で書こうとすると何か固く、重く、不自由な気分になるのです。
こちらの有限な世界に表現をとどめるのではなく、もっと自由で、普遍的で、無限に開けた世界の側に自然発生的に、言葉を立ち現せないか。
そのとき、俳句という「型」が、まさにピタリとそれを可能にしてくれたのです。書く、というより、決められたリズムの中に言葉をあてていく。
自分の心に偏りがあると、「これだ!」というものがなかなかやってこない。直観的に一発で作るのでなく、表現を入れ替えて、思考錯誤しながら、自分とは関係なく存在する「正解」をたぐりよせる感じです。
何十年後に読んだときでも、今のこの感覚をすぐに思い出せるような。自分じゃない人間が読んでも、この妙としてあいまいな何かが伝わるような。
こういう普遍的な何かに転化させる作業は伝統的な「型」を使うと、本当にピタリとくる。
とても自由な表現を味わえる。日本人であることに、本当に感謝したい時間でした。
また、思えば、『ヨーガ・スートラ』は「スートラ」という文章作法、『ハタ・ヨーガ』の文献は「アヌシュトップ」という定型詩で書かれたものです(昔は口伝で経典を伝え残すため、必然的なことでした)。
さらにインド哲学、ヴェーダーンタの世界では「サンスクリット語の学習」や、「スワーミーの講義パターン」も、ある意味、伝統芸能的な「型」をいかに理解するかが大きなカギになると、相方先生は語っています。
こうした伝統に息づく「型」には、有限の世界に生きる意識を、普遍の側にポンと移行させる装置の働きがあるのでしょう。
ヨーガの学習を通じて、わたしが着地したひとつの結果が、自身の文化の伝統精神の「型」に親しむことになるとは、大変おもしろいことだと思います。
また、俳句や和歌に限らず、広く日本の伝統精神と呼ばれるものをこれから勉強してみたく思います。
インド発、東洋の精神性の原点としてのヨーガが日本の精神性としてどう着地したのか。歴史のプロセスを紐解くように、自分の“体験”の中で、存分に味わってみたいものです。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
●最後に
私のディプロマ・コースでの学びは多くの人に支えられて、本当に充実したものになりました。
中でも、相方宏先生・秀子先生の存在は大変大きいです。 お二人のご指導がなければ、
これほど多くのことを学ぶことは不可能だったでしょう。
20年も前に、お二人が留学され、そのまま、あの過酷(!?)なインドにとどまり、精神性の原点を研究し続けてくださったおかげで今の自分の学びが存在する。
本当に感謝は尽きません。ありがとうございました。
また、一年先輩として留学された前川夫婦。「充実した留学」のモデルケースを作ってくださり、お二人を励みに、様々な困難を乗り越えられました。通信状態が悪い中、根気良く励ましていただいたこと、本当に感謝しています。お二人の活躍、今後も期待しております。
そして一緒に留学体験をともにした、C.A.さん。体調不良をいつも気にかけてくれ、精神的にどれだけ救われたことか! 同じ年にインド留学に呼ばれた縁は不思議なものです。 まったく私とは対照的に、自己管理が徹底し、わが道をゆく明里さん。私にない「芯の強さ」を存分に教えくれました。 本当にありがとうございました。
(ここだけの話…
彼女はクラスメイトから「ニンジャー!!(忍者)」と呼ばれました。集団に同調せず、自分のルールで行動する。いるときはいるけど、いないときはいない。インドではこれが大事。本当にアッパレでした!)
そして、留学中、カイヴァリヤダーマを訪れてくださった「M.K.」さんと「M.M.」さん。人生の先輩でもあり、ヨーガの先輩でもあるお二人。ヨーガ学習を深めるヒントはもちろんのこと
「人生全体を俯瞰する」確かな目を教えていただきました。まさに留学をのりきるパワー。本当にありがとうございました。
また、CCYコースに参加された皆さん、相方先生を通じて、カイヴァリヤダーマ研修をされた皆さん、どの方も心遣いが本当に細やかで、自分が日本人であることを思い出させていただきました。インド滞在をともに楽しむ機会、本当にありがとうございました。
最後に…
カイヴァリヤダーマは、不思議なところです。まさに自分の「本当のところ」に触れられる場所かもしれません。興味を持たれた方は、ぜひ一度足を運ばれるといいです。
とりわけ、何かを期待しなくとも、いやしないほうが、欲しいものをしっかりいただけることと思います。
それでは、長い報告でしたがありがとうございました。
S.T.
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
0 件のコメント:
コメントを投稿