2012年5月3日木曜日

バンコクの近況2012(1)

1)タイのお葬式に出席
2)タイの新年ソンクラーン

Sawadee kha!
皆さんいかがお過ごしでしょうか?

日本は桜の季節から、新緑の季節へと移っている頃でしょうか?
皆さんの大型連休を有効に活用されて下さい。

こちらバンコクは、例年の夏よりも暑さが厳しく、連日の猛暑が続いています。バンコク都内は最高気温が40度を越えています。最低気温が30度前後から、下がらないのがキツイですね。

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インドのプネーも4月の気温は40度以上に上がりますが、最低は20度まで下がるので、助かります。この時期プネーのフラットのテラスで寝ると、夜は冷たい風が吹き、天然のクーラーとなり、かなり快適に寝ることが出来ます!

バンコクでは、住民のみなさんは、夜はクーラーの良く効いたショッピング・センターに集まります。夕涼みですね(笑)。40度近くの猛暑になると、バンコク名物の、ビルや乗り物の中の極冷えクーラーが、それほど冷たく感じません。

私たちのバンコクでの住居は、タイ・ヨーガ研究所(TYI)のオフィスの2階で、午前中はエアコンをつけずに何とか過ごし、午後からエアコンを使う、というポリシーにしています。

昼間の設定温度は28度、夜は30度にしていますが、こんな高めの設定は、私たち日本人だけのようです。(ふつうのタイの人たちはもっと低めで、ガンガン冷やしていますね!)

1階のオフィスにはエアコンはないので、スタッフの3人の女の子たちも、さすがにふうふう言っています。ヨーガ・ピープルはナチュラル派なので、エアコン嫌いが大勢ですが、この時期エアコンなしで1日中オフィス仕事はキビシイですね。勤務時間が終わるとすぐ帰宅しています。

私たち日本人では、エアコンが無いと3日でダウンするでしょう!(笑)
でも、1週目・2週目と過ぎて行くと、からだは徐々にバンコクの暑さにの順応して来るのを感じます!

インドのプネーから下旬にバンコクに移ってから、H2は東京へ一時帰国、H1は今年もカトマンドゥーにフィールドワークに出かけたりと、別行動がありましたが、4月・5月のバンコクの近況報告をお伝えします。


1)タイのお葬式に出席

先月、タイのお寺のタイ式のお葬式に参列しました。

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うちのオフィスのディレクターのカヴィー氏の義理のお兄さんが、腰の痛みで病院へ行ったところ、すでに全身に転移した末期のガンと判明。即マヒドン大学の大学病院に入院、余命3週間と言われていましたが、腎臓の機能不全で入院の翌日に急逝されたのです。

カヴィー氏が言うに、義理のお兄さんは(享年68歳)は、からだは丈夫な方で、特に病歴もなかったのですが、甘い物好きで、好きな食べ物食べ放題で、あまりからだや健康のことには関心を持っていなかった人、だったようです。

しかし、一族の中では頼られていた人物で(カヴィー家の長女の旦那さん)、早くに父親が無くなったので長男として他の兄弟姉妹を父親代わりに面倒を見た苦労人で、それもあってクリスチャンに改宗していた、という経緯もあったそうです。

カヴィー氏のお父さんの認知症(痴呆)が進行して、暴力的になった頃は、主にその義兄がお父さんなだめ役として、話を聞きに来て呉れていたようです。

その義兄さんがガンで入院した話を聞いた次の日に、急に亡くなった、と聞いて、私たちも驚きました。

それまで普通の生活をしていたのに、ガンと診断されて、見る見るうちに生気が無くなって行ったようです。国立大学の大学病院なので、余分な延命治療はしないので、アッと言う間の人生の終焉でした。

実は、その義兄の奥さん、つまりカヴィー氏の姉さんも最近認知症の傾向があり、身の回りの事態の急変が理解できていなかったようですね(子供さんたち、つまりカヴィー氏の甥姪が認知症を疑い、病院に診断に連れて行こうとして、本人がはげしく抵抗していた段階です)。

カヴィー氏のお父さんは数年間に亡くなりましたが、晩年認知症。実は、お母さんも認知症、ここ12年くらいで段階的に症状が進行して、今は寝たきりの植物人間状態です。

最初の数年は暴力的な傾向が出て、家族が持て余しました。末っ子のカヴィー氏は結婚しても両親の家に同居していたのですが、お母さんの認知症による人格崩壊で家を出て独立した、という経緯です。

ここ数年はからだの運動機能も失われて行き、今は胃ろうの処置もされていて、介護人が24時間付きっ切りです。1日2回、流動食を直接胃に流し込んでいます。もう家族の記憶も消えており、最初の子供である長女の顔にだけ、少し反応するようです。

介護人はラオス人の人です。タイ人では、もう家政婦をしたり、高齢者の介護人をする人がみつからない、と言います。その層は、周辺国のラオスやミャンマーからの出稼ぎの人たちが担っています。

昨年11月までスクンヴィット通りにある自宅で介護されていましたが(娘の家族が同居)、昨年のバンコク大洪水騒動で、万が一浸水被害があると対応困難ということで、ラームカンヘーン通りのカヴィー氏の家に引き取られ、今はそのままカヴィー氏宅で面倒を見ています。

バンコクの華僑系の人にも、認知症は多いです。カヴィー氏の場合、両親は大陸から移民して来て、バンコクでそれなりの財をなした第1世代です。異国のタイで過酷で勤勉な生活を送った世代は、晩年認知症になるケースが多いようです。華僑系の人たちは大家族制ですので、お年寄りも家族で支えます。

しかし、タイも高齢社会化が進んでいます。次世代は少子化です。カヴィー氏も7人兄弟姉妹ですが、本人は結婚はしていても子供なしです。私たちの回りのタイ組は、高学歴子供なしが大半です。社会の高齢化問題はどこも共通ですね。タイも高齢者の介護問題を抱えて来ています。

さて、義兄さんはキリスト教に入信していましたが、お葬儀はふつうにお寺で、仏式でやってくれ、という遺志でした。義兄さん以外は皆仏教徒ですから(東南アジアの華僑系でキリスト教徒、という人たちは良くいますね)。

さて、ふつうのタイのお葬式は、病院や自宅から遺体をお寺に運び、通夜から葬儀、火葬まで、お寺で執り行われます。葬儀の期間は3日・5日・7日の日程で選ばれます。これは、故人の社会的地位や経済力で決まります。だいたい庶民の場合は5日間前後ですが、VIPの場合は3ヶ月も続くこともあります。

ちなみに、王族方の場合は1年間、国家行事としての盛大な葬儀となります。近年では、2008年12月と先月に王族方の葬儀が王宮広場で執り行われました。1年に及ぶ殯(もがり)の期間の後、古式ゆかしく特設の豪華な櫓で火葬が行われます。故人を天界に送る、という荘厳な儀式で、タイの伝統文化イベントとも言える行事です。

王族方の火葬の櫓はヒマラヤのカイラーシャ山(メルー山・須弥山)を模したもので、アユタヤ時代の有力な王の葬儀の時には、100メートルを越える高さの櫓が組まれた、という記録があります。

The Royal Pyre as Mount Meru


さて、お葬式の知らせを受けると、故人に縁の会った人はお寺での葬儀期間中に一度夕方お寺に行き、夕方1時間の読経に参加するのがタイ式です。家族に香典を渡しておくやみを述べて、ご家族と一緒に僧侶によるパーリ語の読経を拝聴します。

つまり、お寺での葬儀の期間中に、都合の良い日に一度顔を出せば義理は果たせる、というシステムです。

親族や特に縁の近い人たちは、最終日の火葬にも参列して、火葬の儀式に参加します。タイでは火葬場はお寺の中にあります。建物のデザインはやはりカイラーシュ山(須弥山)をモデルにしたものです。王族方の火葬場のミニチュア版ですね。

火葬の参列者は薄く削った木で作った造花をお棺に添えます。これは、むかしは親戚や近所の人たちが故人を火葬する薪を持ち寄った習わしに従うものです。今は紙のように薄く削った木で作った造花が薪の代わりになっています。仏教的なのですが、タイ的に成熟している文化です。

私たちも1日、スクンヴィット通りのエカマイにあるお寺に夕方、カヴィー夫妻と一緒に出かけました。一等地にある大きなお寺で、アクセスも便利なため、葬儀寺として有名なお寺だそうです。

お寺に入ると、敷地内では幾つもの葬儀も平行して行われていました。葬儀会場は20くらいあるようです。何とペットの葬儀場もありました!(それも、日本語で案内が出ていました、需要があるのですね!)。

義理のお兄さんの葬儀場(エアコンのよく効いたホール)に入り、奥さんや(カヴィー氏のお姉さん)や息子さんたちにご挨拶をして、棺が安置されている祭壇へ行き、手を合わせてお参りをします。それから会場の椅子に座って待って、お坊様が来られるのを待ちます。特に、焼香に相当するような儀礼はなかったです。

一応、服装は白か黒です。特に、フォーマルな喪服というルールはないですが、下が黒のズボンかスカート、上が白のシャツやブラウスであれば失礼にはならないようです。

そのうち、三々五々人々がやって来て、同じように遺族に挨拶し、祭壇の棺にお参りして、椅子に座っておしゃべりをしていました。その日は日曜日だったので、参列者も多かったようです。

午後7時から読経が始まります。お坊様方が4人入場、パーリ語のお経が始まりました。お坊様は最低4名がしきたりのようです。タイのお寺はお坊様がたくさん住んでおられますので、数に不自由はないですね。お坊様は数が揃えば良いようで、毎日違うメンバーだそうです。

読経は20分くらいで終わりました。その間、みんな合掌して聴きます。合掌はしますが、こちらでは数珠というものはありません。親族は前のソファー席で、私たちはふつうの椅子です。

その日の読経が終わると、お坊様方は早々に引き上げられます。そして、参列者には食事が振舞われます。シンプルですが、洗練された味の汁麺の容器が回されて来ました。別に精進ではなく肉も入っていました(私たちは肉は避けますが)。

午後8時にはすべて終わりました。予想していたより、あっさりでした。出された食事もあっさりでした。大都会のバンコクでは、葬儀も都市化・合理化・簡略化されて来ています。地方では、もっとハデで大がかりなようですが。

外に出ると、同じ境内の別な葬儀も終わっていて、人の流れや車で混雑状態でした(スクンヴィット通りに面して、大きな駐車場が境内に確保してあります)。

義理のお兄さんの葬儀は5日間コースでした。私たちは3日目の夜に行ったことになります。ガンと診断され、その前の週の水曜日に入院、翌日木曜日に急死、金曜日からこのお寺で5日間の葬儀、翌火曜日に火葬でした。

遺灰の扱いはいろいろのようです。チャオプラヤー河に流す場所があり、そこで海に向かって流すのが一般的だそうです。また、あるお寺と縁がある場合、そのお寺の納骨堂に納めて貰うこともあるようです。

お墓はありません。タイの仏教には先祖供養という習慣はありませんので、お寺に納骨しても、お墓の管理や法事ごとで遺族がお寺に縛られる、ということもないです。そもそもお寺自体が出家者の修行の場ですから、お坊様は自分の修行のために一時的にそのお寺に所属しているだけ、というのが仏教の原点です。

他の国の葬儀に参列してみるのは、とても貴重な文化体験ですね。インドのヒンドゥー教の場合、日本とはまったく異なる宗教文化であり、別世界なのですが、東南アジアのタイですと、日本と同じ仏教の伝統なので、同じところもあり、違うところもある、という発見があり、とても勉強になります。

上座部系のタイ仏教は、パーリ語の教典に残されているブッダの言葉に従った仏教的伝統ですので、「生・老・病・死」という人生の真実が全面に出ます。また、完全に自力本願ですので、自分の努力だけが、自分を苦悩から救う、と考えます。

タイの仏教は、同じ仏教でも、日本の気候風土で最適化されて来た日本的大乗仏教とは、かなり異なったものです。近年、日本でも上座部仏教への関心が高まっているのも当然と思います。日本仏教の現状から見ると、いろいろ新鮮な発見や驚きがあるでしょう。

実は、私たちもタイでお葬式に出たのは、今回が初めてのことでした。良い経験をさせて貰いました。いろいろな発見があり、考えることも多くありました。

先日、日本の宮内庁から、天皇陛下が火葬での簡略な葬儀を望んでおられる、という発表がありましたが、実はタイでは王族方の葬儀は、国家行事としてのタイ文化の発揚の機会でもあり、膨大な国家予算も使われますが、それが伝統文化の保護・振興にもなっています。

2008年12月に王族方の葬儀があったときは、ちょうどタイは政治紛争の真っ最中で、空港占拠・閉鎖までエスカレートした時期でした。しかし、葬儀期間中は、政治的に争う両陣営もぴたりと休戦、国を挙げて葬儀にこころを向ける、という一体感があり、タイの伝統が持つ「文化力」に大いに感心した次第です。そして、王室の葬儀が終わると、また政治的なデモ行動を再開。

現世的な政治経済での利害対立より、仏教の宗教性や伝統文化は高い次元にあり、それが社会全体の統合を保つ、というモデル・ケースに立ち会ったわけです。ある意味、タイの人たちのこころの豊かさを見たような気がしました。

何でも簡略化・合理化というのは、確かに便利かも知れませんが、いつの間にか、こころを貧しくするようにも思えます。

他の国の文化への見聞を広める機会を持つことは、これから、ますます大切になると思えるのです。

わたしたちのタイでの「仕事期間」中に、どうぞ、タイに来られることを歓迎いたします。いろいろとアレンジも出来ます。

特に、アジアの仏教文化に興味のある方には、タイには豊富なリソースがあります。ヨーガについて考えるにも、タイは最適な環境です。


2)タイの新年ソンクラーン

昨年に続いて、今年も4月にタイに居ることになりましたので、今年もタイの新年に当たる4月13日(金)~15(日)のソンクラーンをバンコクで過ごすことになってしまいました!

通称「水掛け祭り」で、外に出て、お互いにハデに、手桶やバケツや水鉄砲やホースで水を掛け合います。ソンクラーンの3日間は、バンコクも、ちょっとした水掛け合戦の「戦闘状態」に入ります。キケンな3日間なのです!

この時期を新しい年の始まりとする考え方は、太陽の動きで決まっているもので、インド起源です。現代インドではもっぱら他の時期を新年として、4月新年はあまり聞きませんが、ネパールではこの時期が新年です。

また、タイだけでなく、お隣のカンボジアもこの時期が新年です。かってインド文明の一部であった東南アジアで、どれだけこの時期を新年とする慣習が残っているのか、また調べてみます。

タイのソンクラーンは、インド起源ですがタイの文化として発展・定着しています。たぶん、ふつうのタイの人たちは、ソンクラーンの

起源がインドとは知らないと思います。酷暑の時期なので、タイではお互い水を掛けて遊ぶ、という側面が強調されて来たようですね。

伝統的には、この時期は、目上のひとを訪ねて、手に水を掛けて、尊敬と感謝の思いを伝える、という、厳かな行事を執り行う時期です。

私たちも、ソンクラーンの時期にタイに居る場合は、道で水知らすの若い子に水をざぶりと掛けられるだけでなく、大学のヨーガ・コースの修了生が訪ねて来て、厳かに手に水を掛ける儀式をして呉れたりします。

今年は4月13日(金)の午前中に、昨年のシュリナカリン・ヴィロード大学(SWU)の人文学部でのコースの生徒さんで、1月にスタディー・ツアーでロナウラにも来られたパエさん(税関職員)がオフィスにやって来て、手に水を掛けてくれました!

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こちらは伝統の形式に従って、ボールを下に置き、その上で合掌した私の手の上にジャスミンの花輪を掛け、花びらを浮かせたお水を掛けます。


ソンクラーンのお祭りは、タイの旧正月・新年であって、おめでたい行事なのですが、インドの「ホーリー祭」同様、私たちにとってはちょっと危険な日です。

昨年4月は、もう大丈夫と思って最終日に外出をして、ざぶりと水を掛けられましたので、今年は特に慎重に行動をとりました。

うちのオフィスのあるソイ(小道)から大通りのラームカムヘーン通りに出る右側コーナーでは、ドラム缶や、ホースをもって常時10人くらいの若い子たちが待機していて、3日間、車や人が通る度にじゃぶじゃぶ水を掛けていました。

反対の左側も、少し行ったバス停のところで、若い子たちが5~6人水を用意して戦陣を張っています。その先の「セブン・イレブン」や屋台のお店には近づけません。

中日の14日(土)は、夕方6時過ぎに外に出て、若いソンクラーン戦士の目を盗んで、手前のガソリンスタンドの奥にあるロータスの小型スーパーに滑り込むことができました。

15日(日)の最終日も、やはり6時過ぎにオフィスを出て、水掛軍団を距離を取りながら素早く歩道橋を渡りバス停到達、運良くすぐにバス(エアコン無しのバスなので窓が開いています)に乗れました。

しかし、このバスの中が大変でした!!

バスも外から水攻撃を受けます。バスの中には、それに応戦するための大型バケツと、応戦要員が2名乗り込んでいます。

バスの床はもちろん水でびしょ濡れ、あちこち歩道で待ち受けている水掛け軍団から容赦ない水攻撃。開いている窓やドアから水がざぶりと入って来ます。そして、それにバスの中からも応戦。

私たちも素人ではないので、窓が閉めてある座席に座り、キケンなコーナーが近付いて来たのを察知すると、さっと身をかがめ、水を避けます。目的地の「モール」まで5分くらいの乗車なので、何とか水をかぶらずに乗り切りました。


しかし、何でこんなことになるのでしょうね??どうも、本来の意味からかけ離れて、単なる馬鹿騒ぎの無礼講ということになっているようですが・・・

本来の「ソンクラーン」は、家族が一堂に集まって、仏像のお清めをしたり、年長者を敬う期間だったようです。

私たちのタイでの仕事が始まった頃(1998年)、有名な高僧のおられるお寺に連れて行かれ、みなさんと一緒に、そのお坊様の手に水を掛ける儀式に参加したことがあります。

当時は何をしているかも、そのお坊様が誰かも、よく知りませんでしたが、後でいろいろタイの文化が解ってきました。

まあ、何とか今年も無事にソンクラーンを乗り切ることが出来ました。猛暑はまだまだ続いていますが!



(この項続く)

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