11月に大学のタイ組のコースのスケジュールを調整して、2つの日本組の合宿セミナーが『ワンサニット・アシュラム』で実施されました。
(1)11月1日(土)・5(水)+11月5日(水)・7日(金)
(4泊5日+2泊3日)
(2)11月16日(日)・19(水)
(3泊4日)
以下は、上記の(1)(2)のプログラムに参加された東京在住の「S.T.」さんのフィードバックです。
「S.T.」さんは本業は教育系のフリーライターです。ボディーワークや呼吸法にも深い関心を持たれ、近年は「ヨーガ」の研究に進むと同時に、インドやアジアの精神文化への興味を深められています。
今年は1月に10日間インド(ロナウラへヨーガ研修ツアー)、6月に長野(『穂高養生園』でのヨーガ合宿)、7月2週間タイとカンボジア(フィールドワーク)、8月・9月にタイに1ヶ月(『パナ・ソム』のヨーガ合宿とピサヌロークで「ヴィパッサナ」)、11月にインド(コルカタへヨーガ研修ツアー)とタイ(『ワンサニット』でヨーガ合宿)等々と、精力的に研修とフィールドワークを続けられています。
『ワンサニット2008年11月』のフィードバック
(S.T.さん、東京在住)
相方宏先生、秀子先生
ナマステ&サワディカップ
11月の研修も、非常に学び深い、有意義な時間をいただきありがとうございました。
バンコクもとりあえずの落ち着きを見せたようですね。帰国後、まさに自分が空港封鎖の数時間前に脱出していたことを知ったときは今までためたプンニャ(徳)ポイントをイッキに使い果たしたか・・・?と思いました。
が、しかしいや、あのまま残ったら貴重なフィールドワークができたかも!と、周囲とはウラハラのタイを信頼しきった思いもムクムク沸き立ち・・・。
また、いつかバンコクの守護天使たちに呼ばれるのを待つ日々が続いています。
タイとインド。
相方先生が深く関係するこの2つの国が世界の注目を集めたこの時期、世界経済も今までにない破綻を迎え、「ヨーガ」がより一層、社会に浸透せざるを得ないパラダイムシフトが起きているのを実感します。
日本でも、日本人だからこそ体現できるヨーガの体系が、安全にかつ正しく築き上げられていくのを心から願っていくところです。
さて、本題のセミナーのFBをさせていただきます。
わたしは幸運にも11月に『ワンサニット・アシュラム』で行われた2つの合宿セミナーに参加できました。
(1)11月1日(土)・5日(水)+11月5日(水)・7日(金)
(4泊5日+2泊3日)
(2)11月16日(日)・19(水)
(3泊4日)
(2)は、クローズドな研修です。今年1月に、カイヴァリヤダーマで相方先生から偶然に講義を受けられたフィットネス指導者の団体研修ツアーがこの11月に、相方先生に特別に依頼したセミナーです(わたしはこの1月の参加者でもありました)。
先生もメール配信のなかで触れられておりましたが、近年の参加者の傾向の変化から(フィットネス的ヨーガの影響を受けた層の増加など)相方先生の講義がより一層体系づけられ、展開のわかりやすさ、資料の充実度が増してきてました。
なかでも際立つのは、「インド思想の根底にあるもの」をいかに理解するか、このアプローチが深まってきたように感じられます。当然ながら、現代日本に生きる我々と違う価値観の中で育まれた、ヨーガの思想と技法。その違いを整理することは逆に、「今、現代にはない、何を求めてヨーガを行っているのか」の自分理解、時代理解につながります。
かつ、タイの仏教文化のフィルターを通すことで、アジアひいては日本の文化背景をどう理解するか、にまで広がる。このへんに、進化の大きな狙いを感じています。
じつは、この(1)と(2)のセミナーの短期間の間にも進化は着々と起こっており(!)、先生の本気度が伺えました。今後、相方先生の講義はさらに注目度大です。
今回のFBでは、まずこの進化されたと思われる点でとくに印象に残ったものを報告させていただきます。
●「サマーディ」について (美徳からはみ出る絶対性)
「ヨーガの技法はこの”サマーディ”を中心に展開している」講義の結論の段階で、よく聞かれた言葉です。サマーディの何たるか、が理解できれば自ずとヨーガの全体像も理解できる、ということ。
サマーディは日本の解説書の多くで”解脱”とほぼ同意義に扱われています。ヨーガの最終段階、目指すべき境地ということは、よく知られた事実かと。そして、今回、相方先生はサマーディの説明で睡眠モデルのグラフを資料として用いて、「“熟睡状態”の理解が、サマーディ理解のカギとなる」という解説をしてくださいました。
熟睡がサマーディと同質の状態だと。これを理解することは、一種、インド思想の特異性を理解できるか否かの踏み絵かもしれません。”解脱”と”熟睡状態”を等しく考えられる感覚は日本人にはあまりないから・・・です。
日本においては解脱は無我の境地。修行の果てにある、ある種の美徳をまとっている。しかし、インドにおいて、それはだれでも毎晩行っている熟睡の状態にある、と。
わたし自身、じつはかつてこの理解モデルを聞いたとき違和感がありました。目指すべきものが、そんなカンタンなものでいいの?といったような。
しかし、今回の講義でかなり理解が進んだように思います。相方先生がインド思想の根底にメスを入れてくれたからです。インド思想にとって人生のゴールは「自身の限定条件から自由になる」こと。つまり、「限定条件をどのレベルで考えているか」がインド思想、ひいてはヨーガを理解するうえで重要だ、ということです。
自分を限定するもの・・・といって何を自分は想像するか?正直いって、労働環境、住居環境、家庭環境・・・なんとなく、自分をとりまく環境(関係性)が自分を限定していると感じている自分に気づきます(この”関係性と”いうものも、相方先生は「取り外す対象」として
説明していました)。
しかし、インド思想は、自分の周囲にあるものよりも前に、この「肉体」をそれと考えていた。意識(精神性)という無限性を限定するものとして体がある。苦しみや悩みは体がともなって起こるもの。だから、それを感受する「心」とて、体の感覚器官のひとつして考えられ、意識(精神)とは別のものとしたインド思想。
考えてみればアーサナも呼吸法も、ムドラーもクリヤも骨格・神経メカニズム、内圧や反射といった体(生命活動)の限定条件を決定づける要素に対し刺激を加え、その閾値を広げる(ストレスに強くなる)訓練になっている。サマーディの状態とて、対「肉体」の発想があっておかしくない(ここが、精神面に焦点をあてがちなぼくらと違うところ)。
そのとき、熟睡モデルは大きく意味をなしてくる。体がある=不安定な心が存在する、と考えれば心がまったく不動である熟睡は、私たちが体験できるであろう、唯一の限定条件が解除された現実だ。
それは意識が覚醒している状態には起こりえない別次元の現実。だから、覚醒しながらにして同時に起こることが限定条件を超えた、無限性を体現した理想の境地になる。
・・・という理屈の理解をしたところで、自分の足元を見てみる。「じゃ、自分はヨーガをすることで熟睡状態を目指しているのか?」と思うと、やはり違和感が残るもの。熟睡という言葉で、インド思想のように精神性のからみでとらえるイメージ(感覚)がないからだと思います。
インドだと、偉人であればあるほど武勇伝のように、幼少時からサマーディ体験をしている(つまり、飲まず食わずで意識不明状態、だけど生きている・・・)。このエピソードは、やはり、日本人の私にはちょっと違和感があります。
そこで、一歩下がって考えると、”自分をとりまく環境(関係性)”に限定条件を見出す思考のわたしが肉体を限定条件とするヨーガに、なぜ魅かれるのか、と考えると・・・
やはり、環境をどうとらえようと、そのとらえる心自体はつまるところ、肉体の微細な感覚反応によってよい悪いを実感するわけだから、(心は体の反応と連動しているから)肉体を知る、肉体を感じるヨーガに取り組むことが感覚反応に束縛されない自分を作り上げることになる=限定条件を取り払うことになると思うわけです。
熟睡を覚醒した状態で体験することを「美徳」とは思いませんが、でも、限定条件を取りはらう、という点で絶対的であることを理解すると
インド思想の冷静さが実感として沸いてきます。
たとえばキリスト教は、関係性の中にもっと入り込むものではないでしょうか(神と私の関係、私のかわりに死んだキリストを思うこと、など)。
限定条件の解除、を目指すというより限定条件(ここでは原罪)にもっと深く飛び込んで、それと一体になる(神を愛する)といった志向性を持つ側面もあるかと。感情が一種の起爆剤になっているようですし、わたし自身、そこが魅力でキリスト教を学びました。
また、絶対的な境地を達観するより、関係性における美徳を重視する日本人としての私も少なからず意識できます。もっとも、それは、個人的な欲求ではなく、社会的な生活を営むうえで、全体が一緒に動くことをよしとする日本的志向として実感されます。
このサマーディの「美徳」からはみ出る、だけど絶対的である。この地点に焦点をあてたとき、ヨーガはもっとイキイキと日本人に馴染むものになりそうな気がします。情緒としての理解、理性としての理解、この2側面は日本人が得意なところではないでしょうか。
相方先生はこのサマーディを解説したうえで、しかし、サマーディが継続的に続くわけはなく、通常の状態でも悩み苦しみがない状態(涅槃)を目指すところに仏陀が登場して瞑想を説いた、インドではヴェーダンタ哲学が表舞台に出た、と解説してくださっていました。
歴史がサマーディはゴールでないと語っている。この先に行こうとすると、宗教的な枠組の中でないと深められない状況が待っていますが
相方先生の理性的な説明を受ける限り仏教は学んでおいて損はない、という実感が沸いてきます(ちなみにヴィッパサナー瞑想はタイで体験するのが一番だと思いました!)。
・・・最後に、このサマーディを考えるうえで、じつはどうしてもまだ腑に落ちないことがあります。ハタヨーガの流れから出てきた「クンダリーニ」の存在です。スシュムナー(背骨)をクンダリーニが流れるとサマーディにいたる・・・という。
静かな「熟睡」と、燃え上がるような「クンダリーニ」は概念としては、相容れないものを感じてしまうのは・・・私だけでしょうか?
たしかに、宇宙の力が背骨に流れれば、気持ちよくて肉体の感覚がパーンと外れちゃうんだろうな・・・とは思いますが。両者をつなぐ根本的なところが、まだ見えてません。ここは、やはりハタヨーガの古典テキストを学ぶ必要があるかと思います(・・・先生の講義に期待するところ大です)。
●瞑想をどう考えるか (心と”私”の扱いについて)
「瞑想」は講義の項目として立てられていますが、今まで、相方先生はあまり深くは触れられてこなかった印象がありました。「宗教的な枠組に入るものだから」だと思います。しかし、今回先生は、脳のモデルを資料に瞑想をとらえる視点を解説してくださいました。
それは、とても理性的で、理解しやすいモデルでした。脳の発達段階上、動物と同じレベルで本能的に活動する部分(古い機能)とそれらを抑制し、コントロールする発達・進化した部分(新しい機能)がある。それらの統合が瞑想である、と。
ここでいう統合は「鎮静化」です。本来、本能の部分でカオスと化した脳(山火事のように大荒れしている)。そこに鎮静剤をまいていくのが瞑想、ということです。
相方先生曰く、
「”脳の活性化”だなんて、火事にガソリンをまいているようなもの」と。笑
・・・現代日本は、いわゆる”脳活性ブーム”。ここ数年、「脳の活性化」が市場を賑わせ、爆発ヒット商品も数多くあります(わたしが執筆する教育関係でも、このキーワードは外せないものでした)。
ここにも、インド思想と現代日本を生きるわれわれの微妙な違いを感じます。インド思想の前提は、前述のとおりコントロールのきかない領域を「限定条件」としてみなし、それを解除する方向にいく。「脳には暴走する領域がある」と見極めた時点でそれは取り払うべき対象になる。これは、ヨーガスートラが「心は不安定である」とし「動きを止める」方向に展開していることと同じなのでしょう。
ここで、ふと考えたいのは、「わたし(たち)は自分の限定条件を、心や脳に感じることができるだろうか?」ということです。
果たして、心はわたしの無限性を阻む存在なのか?と・・・。率直に言って、「自分の考えていること=自分」であり、自分が心を使っているのであって、心が自分を限定する条件になっているなんて通常意識では持たないのでは・・・と、思います。
この瞑想の講義中に先生から出たキーワードはとても興味深いです。「インドでは、考えているのは”心”であって、”私”自体は感じていない」とか、「”体”は死ぬけど、”私”は死なない。睡眠と一緒。寝て起きただけ」など。
心や脳と同一視してしまいがちな自己の存在をインド思想は根本から分けている。「動いている心や体があっても、本質の”私”はそれを見ているだけ」。活動しているもの(存在)は、そもそも本質の私ではない、という話です。
これが理論的に納得できるか否かは別にして、「こういう”私”の存在を実感することが瞑想なのだ」という解説を聞いたとき、わたしの中で、瞑想はやはり意義深いな・・・と思いました。
この種の”私”の実在を扱うのは、ある種、哲学の領域だと思います。しかし、哲学はそもそも人間の営みを細かく観察した果てに出てくるものであって、ムリな概念をとってつけたわけじゃない。わたし自身、まったくその「私」を感じないワケじゃない。。。レベルは低いかもしれませんが、かつて仕事マシーンのように生活したころ、動かす手足や、感情ですら、それは自分が使っているところのものじゃない、という実感がありました。
”私”は別のところで見ているだけ。これは忙しいから、というだけでないハズ。何か社会生活を営んでいる、そのとき社会を前提にして生きていれば、動いている(動かしている)のは”そっち側”。”私”の側でない。そして、自分らしい日々を・・・といって、好きなことを選んでやっていたとしても遅かれ早かれ、その内実はコロコロ変わります。私が変えている、というより、そのときの感情(心)がそれを求めていた、にすぎず、その心は、たまたまその心だったにすぎない。
・・・と、もっともらしく書いてみましたが、もちろん、これが私の日常のすべてではなく、前述のとおり、生活感覚としては「心=自分」が率直な感想です。ただ、あの”私”が少しでも感じられたとき、わたしは少なからず、冷静に判断する自分を感じます。心や体の使い方のレベルを変えたい、と思える瞬間でもあると思います。
「その体験が瞑想だ」と言われると、やはり深めてみたくなります。ゼロになる、無我の境地を目指す、と語られることよりもはるかに身近に感じます。
また、自分の限定条件として心をとらえていくことも、いずれリアリティが出てくるであろう、と想像できます。さすが、相方先生の講義の面白いところです。
この話はさらに派生していきます。こうした本質的な”私”の実在感をインドのみならず、タイにおいても仏教思想から、みな体験的に感じているようです。自身を鎮静化させ、動いている側の存在と、”私”を分けていく。「魂が成長する」=「”私”への理解を深めていくこと」だ、と(とくに、タイヨーガ研究所のガビーさんの講話は段階的にわかりやすく、”私”を体感するレベルを掘り下げていくので、非常に興奮します。 あ、沈静化します、か!)
この魂の成長というところで、相方先生から、「西洋人がこの概念を理解することは非常に困難」というエピソードが出てきます。キリスト教の原罪思想ゆえ、魂を成長、変化するものとして考えづらい・・・とのこと。東洋と西洋の違いがここで明確に出てきます。
じつは、わたしもそれには共感する部分が多いです。もっとも、わたし自身は、原罪思想から、という点においては理解不足ですが、そもそも西洋では「心=私」→「自分が心の主体である」という前提条件が強く、「心は”私”とは別に、勝手に動くもの」という概念が、存在しづらいのを感じます。
人間中心主義、個の主張が強い、という言葉でも語られますが、「自分の意見を言ったもん勝ち」といった雰囲気は、憧れもありますが、中身のなさに時々ビックリすることもあります。特徴として、「表現を並列的につなげていく」のであって、奥行きを感じない、という印象です。
わたしが意味する「奥行き」というのは、自分の感情や行為を、自分自身が見つめる目のことです。つまり、本質的な”私”を心の動きや行為から切り離して考える思考があまりない、という印象です。
へんな話、わたしは映画やテレビドラマが大好きなのですが、日本のドラマは、自分が思っていることと、やっていることの違いに本人自身が気づく、というのが主なドラマ的クライマックスであることが多いようです。でも、西洋のドラマは、感情や行為を自身がどうとらえるか、よりも、あくまでシーンや状況が変化していくことがメインで、個人の気づきよりも、それぞれの立場の変化に盛り上がりを設定しているようです。
ドラマで何を見たがるかは、「人生において何を見出だしたいか」に通じる・・・。西洋人が瞑想的思索が苦手なことを思えば、日本人は、瞑想が扱う心のとらえ方に馴染みがありそう・・・と楽観的に思えてきます。
もっとも、本質にいくには、もう少し次元の飛躍が必要でしょうが。
●古典の理解について (プンニャとパーパから)
ヨーガスートラに基づく、インド思想の「心理モデル」を理解することは、今までのセミナーの中でも重要なテーマだったと思います。今回のセミナーの中では、心理モデルを理解したうえで、「スートラ自体をどう読み解くか」にまで焦点があたりました。
つまり、重要となる1章、2章の流れをおさえていきました。それには前提にある「サンキヤ哲学」の理解、そして、古典としてのスートラの「全体的な特徴」を理解することがカギになったと思います。このへんは、もはやインドの大学院で学ばれた相方先生だからこそこれだけ明快に語れるのだろう、と実感できるところがあります(じつは、ヨーガスートラを日本でも学ぶ機会がありましたが、1日1節だけを1時間かけてやるなど・・・全体像が非常につかみづらい印象をもっていました)。
ただ、セミナーのスケジュール上、ヨーガスートラの流れを見ていくのが、4泊5日後の”プラスアルファ”の期日にずれこみ、いささか駆け足だったのが、もったいなく思いました(!)。
相方先生が途中に差し入れるエピソードが大変おもしろく、それに夢中になりました。実際、それがヨーガスートラの全体像の中でどう位置づけられるか・・・その場で整理しきれなかったのが残念です。心理モデルをマップ化されたように、スートラの全体の流れもマップ化されないかな・・・とひそかに思っております。
そこに、サンキヤ哲学が具体的にどう反映されているのか、その関係も見てみたいです。
また、ヨーガスートラを簡素な「公式集」としたとき(こう明言くださって、本当にわかりやすかったです)古典文献として、それと比較できる近いものがあるのか、また、そのコメンタリーとしてどんな文献があるのか、なども、後々興味がわいてきました。
とくに、そこからハタヨーガの古典への興味も広がります。ときどき、宏先生と秀子先生が歌うかのように古典を諳んじるときは、うっとりとした気分になります。とくにハタヨーガの古典は、今までのようにアーサナ、クリヤーの項目からだけでなく、全体像が比較・理解できるように、経典全体を俯瞰する項目を立てて、学べたら最高です。今後の先生の展開に多いに期待したいところです(!)
そして、なんといっても今回のセミナーでみんなの心をわしづかみにしたのが「プンニャ」と「パーパ」でした。「徳」と「不徳」の行為の結果はポイント性で自分に返る、というお話。セミナー中、お互いのいい面を見つけると「あ、今プンニャポイントがたまった!」と、笑いあうのは、こっけいですがとても楽しかったです。目に見えない世界を引き寄せる感覚が、それとなく共有できます。
今回、大きく見て、ヨーガスートラの「導入」の位置づけでこの説明があったように思われました。行動=人生(カルマ)を考えることは、おそらくヨーガの経典、さらにインド思想を理解するうえで外せないものでしょう。
自分のカルマを考えることは、どういう意味でヨーガを続けるか、ということにもつながる。自身のプンニャ、パーパを見極める道しるべとしてヨーガスートラの心理モデルを学ぶことは、古典学習が、単なる知識の勉強以上の意味を持ってきます。
プンニャとパーパがどのように自分にかえってくるかの解説は、相方先生のセミナーでのオモシロどころですので、ぜひ、皆さん、実際に参加して体験くだされば、と思います。今回は、日本をお騒がせした小室事件、春風亭問題などからの引用が豊富でした。
では、以下
FBのフォーマットに従って、レポートさせていただきます。
1)『ワンサニット・アシュラム』について
荒れ果てた地を植林し、自然の共生システムを復活させた場所とあって、開拓者のスピリットとともに、何か強い地場を感じます。のどかな鳥のさえずりを聞いていると、数10年前は、ここに鳥さえいなかったことが不思議でなりません。素晴らしい場所です。
虫もいっぱいいますが、昆虫観察が好きだったわたしにとっては、興味深いものだらけ。
しかし・・・最終的に思ったのは、「ワンサニットは講義よりも実技中心のほうがいいかも?」ということでした。というのも、相方先生の講義を聞いたら、頭をうんと使います。とことん落ちついて整理したり、休みたいのに、パナソムほど、休まる場所がない。。。
部屋に戻っても、衛生面の悪さからほっとする感覚があまりもてず、おまけにいつも蚊対策におわれ、蚊帳の中で窮屈なストレッチをしたり。ふとんが薄く、網戸の部分が朽ちて閉まらないこともあり、夜中に冷えて何度も目が覚めて、休みが不十分なことも・・・(部屋の新旧のレベルによります。あいにく工事中で古い部屋に・・・)。
しかし、アーサナ、呼吸、瞑想中の落ちついた雰囲気はワンサニットでしか体験できないものがあります。身体感覚がとても敏感になり、
自分の体を超えて、自然の中に感覚が溶け込むのも味わえます。ある意味、「これはアウトドアキャンプなんだ」と開き直ったら、少しラクになりました。
頭を使うより、感覚を味わう、ということに集中するとワンサニットは居心地の良さをとても実感できます。自然のすべてが美しく見えます。しかし、頭を整理したい・・・と、ひとたび思うと明るい電気、体を十分動かせる室内スペース、ホットシャワーなど・・・万全な設備が恋しくなる・・・修行が足りない自分を実感する日々でした。
2)合宿セミナーの内容について
今回の夜のビデオ講義ではアニメ「ラーマヤーナ」が、大変おもしろかったです。どのへんが”見せ場”なのか、先生の解説つきです。おかげで、その後、タイの観光スポット・ワットプラケオに行った際も、壁画を見てラーマヤーナのどのエピソードなのか判別がついて充実しました。
後で思ったのですが、あの物語のどの部分を、どのように引用しながら、「インド人が人生訓を語るのか」そのへんを先生から教えていただけばよかった!と思いました。
また、インドを報道したTV番組(サドゥ大集合「衝撃の巨祭:クンバメーラ」)は大変衝撃的で、ハタヨーガの真髄を垣間見れました。サドゥの実態を知るなら、この一本!何度も見たいビデオです。夢に出てきて欲しいです。
また、今回は、充実した資料を見せていただき、本当に勉強になりました。先生、ありがとうございます!
◎サンスクリット語の辞書資料
「YOGA」の幅広い字義、用途の実態が確認できました。「サマーディ」も合わせて確認、充実ですね!
◎MDNIY:国立ヨーガ研究議会の写真資料
スタンダード化に向けて動き出した議会、その様子をリアルに感じることができました。噂に聞くインドの主要なヨーガ専門家たちとはこういう人たちだったのか・・・!
◎サドゥの資料
(2)のセミナーでは、サドゥの資料が系統立てられて紹介され、ヒンドゥー社会の奥深さに触れられました。仏教が否定したもののを合わせて解説してくださるのがうれしい。
◎仏教経典の章立て資料
ヨーガスートラを理解する参照として仏教経典「マハ・サティパッタナスッタ」の章立てを確認できました。最終章の「死体を見る」は、教えの特徴を際立たせていました。
◎タイヨーガ研究所ディレクター:ガビーさんの講話
8月のパナソムの講話よりさらにパワーアップされた印象です。タイヨーガ研究所の成果は、お寺、学校から病院にいたるまで!心をコントロールする精神性の深まりを段階的に提示していく論理展開はあっぱれなくらいです。仏教の道徳説法の手法を使っているとのことですが、毎回、見事に話に引き込まれます。
(以上の内容は、セミナーの(1)(2)の、いずれかのみに提示された資料も含みます)
3)今回のプログラムの総括と今後期待される企画
上記にも挙げましたが、「古典理解」ひいては「インド思想の理解」は、今後さらに相方先生の腕が振るわれるところと思います。期待しております!
また、今後も、「プンニャ」&「パーパ」に並ぶわたしたちが身近に使えるインド思想の概念、キーワードが生まれてくることを楽しみにしております(ちなみに7月のセミナーでは「微細な体」がわたしのヒットでした)。
4)タイ全般の印象、役立つ情報など
今回(2)のセミナーにてワンサニットに訪れる前に、途中で「パンニャナンダさんのお寺」に寄ることができました。
正式名称は「ワット・パンニャナンタラーム」。タイには、占い・葬儀などの儀式を行う「街のお寺」と、瞑想や仏陀の教えを伝える「森のお寺」の2つがあり、こちらは、まさに後者です。
森のお寺らしく、説法を聞く広場は林や池に囲まれて自然の心地よさが十分味わえます。なんと、政府指定の瞑想寺。公務員や医者の研修にも使われる、とのことです。
わたしたちが訪問した際は中学生の週末を利用した2泊3日の瞑想合宿が開かれていました。(みんな胡坐をかくのが上手で、ピタリと安定している!)相方先生から、何度か聞いてはおりましたが、実際、多くの方が街から脚を運び、僧侶の話を聞いています。参加者の多くは白い服を着用して、正装しているようです。
お昼はボランティアの方が多くのメニューをご用意くださり、なかなか味わえない伝統的なタイのお菓子も数多く頂戴しました。
施設は大変充実しています。どんな宗教・文化にも開かれたデザイン性を持つ本堂があり、研修プログラムを行う大広間、パーリー語の翻訳設備も整ったコンピュータルーム、池の上には、毎週ヨーガクラスも行われる瞑想ホールもありました(仏陀の形がくりぬかれて、外の風景が見通せる、瞑想の心象風景がそのままに表現されたホールでした!)。
裏手には、瞑想合宿に参加された人が住む瞑想小屋が立ち並んでいます。2~3畳ほどの質素な空間ですが、自分と向き合うのにまさに適応した環境です。志願者は近年増え続ける一方で、現在は60ある小屋を、倍増する工事も進行中だとか!
私たちの案内をしてくださったレンさんはバンコクで公認会計士としてご活躍されている社会的地位もある方。ボランティアでお寺の案内役を務め、心の美しさがそのまま笑顔に現れた、心優しい紳士です。わたしたちを大歓迎してくださり、何度も「瞑想合宿にぜひ参加してください!」と声をかけてくださいました。「ぜひ!」と私も手をとった次第です。
注目すべきはインドから数多くの僧侶志願者(サマネーラ)が勉強に来ていること。世代も小学生~高校生ぐらいまで幅があり、50人近くはいたでしょうか。
相方先生曰く、「インドからの留学生は大切に扱われる」とのこと。お寺から大学まで通う奨学制度も受けるらしく、インドに帰国後、仏教を広める重要な役目を担っているようです。日本でも、かつて一度こうした試みがあったようですが、なかなか継続しなかったようです。タイの仏教システムの成熟度を垣間見れました。
また、在家の信者さんで、数ヶ月の一時出家をして修業をされた方たちの「終了の儀式」にも、偶然立ち会えました。それまで身につけていた袈裟を返納する感動のシーン・・・まさにテレビで見た光景が広げられていました。周囲には家族が見守り、思ったより、ほのぼのしてました。
今回、こうした政府指定の瞑想寺にこれほどまでに充実した案内と、見学の機会をいただけたのは、相方先生と一緒だったからに他なりません。まさに、先生がこの10年間で、タイにおけるヨーガを「社会的教育プログラム」として確立してくださったお陰です。政府の助成金を得て、社会に貢献できる枠組みの中で展開してくださったからこそ。民間で、商売としてやっているヨーガだったらお話しになりません・・・。
こうした機会を与えてくださったことに本当に感謝します。ぜひ、今後、相方先生のセミナーに参加される方も先生におねだりして、「森のお寺」に連れて行っていただけたらそれは非常に幸運なことと思います。
相方宏先生、秀子先生、
今回も素晴らしい体験を与えてくださって本当にありがとうございました。この学びをよい方向に導けるようこれからもヨーガに親しんでいきたく思います。
また、相方先生のセミナーを通じて多くのヨーガ愛好家の方と素晴らしい体験を共有できますこと、心より楽しみにしております。今回、ご一緒してくださった皆様、本当にありがとうございました。今後ともどうぞ、よろしくお願いいたします。
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